2ND SEASON
5.〜アヴェ・マリア〜

ゆるやかな丘にメロディーが流れている。
ロイは時折、風の向きでとぎれとぎれに聴こえてくる音を探して森の中へ入っていく。それがだんだん女性の歌声だとわかった時、墓標の前にマリア・ロス少尉の姿を捉えていた。

『アヴェ・マリア!清き娘よ、
  大地の、空の悪魔たちを
  あなたの眼の慈しみで追い払い、
  わたしたちの側に住み着かないようにしてください。
  わたしたちはじっとこの運命に従います。
  あなたの神聖な慰めがもたらされるのですから。
  この娘にやさしく身をかがめてください、
  父の為に祈るこの子に。
  アヴェ・マリア!』

その無心にアリアを歌う姿は神々しいほどだった。観客は私だけか…。いや、この墓地の埋葬者たちもその歌声に耳を傾けていることだろう。
ロイは祈りを捧げるマリアの背後から花束を差し出す。
「…マスタング大佐」
「なかなか出てこんな、爆弾魔は。ロス少尉も暇だろう」
墓標にはトリシャ・エルリックの文字が刻まれている。受け取ったマリアはそっと花を置いて立ち上がる。
なぜかどんぐりやクリ、胡桃の実が墓標の上に置いてあった。
「さっきまでエドワードさんが一緒にいたんです。木の実を取っていたら私の歌声が聴こえて山から降りてきたんだそうです。風に乗ったんでしょうか?エドワードさんが弔う間、アリアを歌ってあげました」
「成程。私はその声を追っていたらここにたどり着いたわけだ」
「途中で逢いませんでしたか?アルフォンス君たちが待っているからとそっちに戻りましたけど」
そのエドを気遣うマリアの横顔は軍人らしからぬ優しさを帯びていた。
「いや、違う道を知っているんだろう。ところで…ロス少尉」
「はい」
「君さえもしよかったら、エドワード・エルリック少佐を受け入れてくれないだろうか」
マリアはしばらく無言でロイを見つめていた。風が吹き込んできたのを合図にマリアは口を開く。
「それと同じことを気まぐれにせよ、ホークアイ中尉には言わないでください」
「なぜだ?」
「エドワードさんが女性として私を愛することはないでしょう。大佐が、戯れにでも、ホークアイ中尉を愛さないように」
「リザのことか?どうしてここにホークアイ中尉が出てくる?」
「私がエドワードさんのそばで護衛を志願しているのは私の意志ですが、誰かに強要されるべきものでもありません」
それが答えか? 私は確かにリザに「ついてくるか?」と尋ねた。それは強要や命令などでは決してなかった。彼女も誰かにどうして私のそばについているのかと訊かれた時、同じように答えているんだろうか。
「子供は守るべきもの、だからか?」
「はい」
「彼はもう15才だ。もうじき16才になる、子供ではあるまい。だけど軍隊という狭い大人の社会の中でむちゃくちゃな偏った成長の仕方をしている。やんわりとその行動を導いてくれる大人がいたっていいんじゃないのか?私の言うことは聞くまいよ」
「誰も、人の気持ちをコントロールなんて出来ないと思います、大佐。私は私のやり方でエドワードさんが大人になるのを待ちたいと思っています。そして目的を果たしたら除隊してくれたらいい…いえ、もし残られるのでしたら、私がその背中を守ってあげたいと思わせてくれる唯一の方です」
マリアは腰の拳銃に手を差し伸べた。
「そうか。変なことを言い出してすまなかった」
「いいえ。…そろそろ失礼します」
「アリアの心得があるとはロマンチックだな、ロス少尉は」
「マスタング大佐ほどではありません」
失礼しますとマリアが言いかけたとき森からガサッと音がした。

「…来たな」
「え?」
「ロス少尉、拳銃を抜け」
それと同時に男が飛び出してくる。
「わぁぁぁぁぁ!!ロイ・マスタングとはお前のことか。自然を軽視し人間の命を弄ぶ軍の狗め。何人もの軍人を殺してやった。最後にお前を道連れにしてやろう」
ロイはポケットから手袋取り出して静かに右手にはめた。
「どうやって?私に指一本触れることは出来ないと思うがな、爆弾魔ボマー!」
「ふん。こうやってさ」
ボマーがコートを開くとダイナマイトが裏地に数十本取り付けられていた。ロイはハッと息を呑む。焔を放ったら導火線に火をつけたのと同じで辺り一体が吹き飛んでしまう。
ロイは焔を放つことを躊躇した。
「下がってください、大佐!こんなこともあろうかと、リザの銃を持ってきてあります。当たりますように!!」
「へ?」
「爆弾魔にも無能なんですね、大佐」
「…」
男が手にしたライターが導火線に触れる直前、バーンとマリアの撃つ銃が発射された。
眉間にヒットした弾は男を後ろに強烈な勢いで押し倒した。ライターが吹っ飛ぶ。
「やりましたっ!!大佐♪」
「君がリザと同じような性格にならないことを祈るよ。アーメン」

マリアが無線機で地元警察を呼んでいる間にエドとアルとウィンリィが駆けてきた。
「終わったんですね」とアルが聞く。
「うむ。あっけない最後だったよ」
マリアはやってきた警察にてきぱきと犯人を引き渡している。エドはそんなマリアを眺めていた。ロイは解決したことだし、さて明日にはここを立とうと言って宿へ戻った。
「早く寝ろよ、鋼の」「子ども扱いするな」相変わらず楽天的なヤツだとエドは見送った。

「エドワードさん。私は犯人の遺体を搬送しますから今晩のうちに発ちます」
マリアが告げた。
「うん。気をつけて、ロス少尉」
「少しこちらで美味しい空気をもっとたくさん食べてセントラルへお戻りくださいね」
「そうしようかな」
「そうなさい。胡桃をひとつ、貰っていくわ」
マリアは笑ってジープに乗り込んだ。去って行くマリアを見送って、エドは明日にはもうセントラルに帰るのに、心にようやく郷愁が湧いてきたような気がした

夕食のあとエドとアルはベッドに横になって話をする。
「あのね、兄さん…大佐のことなんだけどさ。ウィンリィの両親のことなんて聞いてた?」
「うーん。イシュバールで戦闘に巻き込まれて戦死?大佐達も戦場に投入されたんだから責任が無いとも言えないけど…」
「巻き込まれたんじゃなくて、粛正なんだって」
「軍に?」
「うん…大佐に、銃で」
「え!?そうなのか?なんで、そんな…」
「だけどね、ウィンリィは大佐が優しい人でさ、責められずに苦しんでる。ここにいる間、墓参りをしてくれたこととか、デンと遊ぶ姿とか見てね、要するに…」
「なんだよはっきり言え」
「好きになっちゃったんだって」
「…あ。そっか」
ウィンリィ、メンクイだからなぁ!だはははっ…というようなリアクションが返ってくるとアルは思ったけれどエドはそのまま沈黙してしまった。

「…俺、ちょっと大佐に逢ってくる」
「喧嘩しないでよ〜兄さ〜ん!」
分かったと手を振ってエドはロクサーヌ婦人の宿へ向かった。


6. 〜幻想即興曲〜

途中で雨が降り出した。
ロクサーヌ婦人の宿にエドが着いた時はすっかり雷も荒れ狂う嵐になっていた。
ドアを叩くと婦人が出てくる。
「エドワードといいます。マスタング大佐の部屋に入れてもらいたいんだけど」
「もうお休みになっているかもしれませんが、どうぞ。二階の一番奥です」

エドが部屋の扉を叩くと「はい」という声がした。ガチャリと開いてロイが顔を出す。
「鋼の…?こんな夜中にどうした」
「話しがあって」
そう言いながら、言いたいことが浮かんでこないことにエドは気が付いた。
部屋の中は寒々として奧のベッドサイドのテーブルのランプが灯されているだけだった。…寒いな。「雨に濡れたのか?風邪をひくぞ。ほら」とロイはタオルをエドの頭に乗せて部屋に入れる。壁に吊した軍服から手袋を取りだして右手にはめて指を鳴らすと一瞬で暖炉に炎が上がった。ロイは暖炉の前にイスを置く。「上着を脱いでそこにかけたまえ」

窓を叩く雨音が時折強くなったり弱くなったりしてヒューヒューと音を立てていた。
「それで、話しとは?」
「アルが鎧になって俺が手と足を失った日、ウチに来たのはウィンリィに会いに来たんだろ、本当は。あいつの両親を大佐が撃ったって、アルから聞いた」
「そうだ。錬金術師のスカウトのリストを見ている時に両親を失った君の、保護先の家の名前を見つけた。
ロックベル…愕然とした。何の縁だろうかと」
外科医師だったウィンリィの両親の死。エドが母親を甦らせようとした人体錬成の失敗。ロイが良心の呵責に苛まれてイシュバールの少年を人体錬成でこの世に呼びもどしたいと思ったこと。ロイのため息は重く沈む。私には…エドのように実行は出来なかった。
「…辛かった?」
「何故そんなことを訊く?鋼のらしくもない」
「落ち込んでいるからさ」
「お前もな。こんなことに首を突っ込んでどうする」そう言ってロイは窓の外を見る。
ランプの下にはウィスキーの瓶が置かれていた。
「ちょっと飲ましてよ、それ」
ロイはエドに自分の飲みかけのグラスを、ほら、とでも言うように渡す。
そういう時はそこにあるもう一つの使っていないグラスにウィスキーを注いで渡すもんじゃねぇの? エドの目が一瞬躊躇するように泳いでグラスを受け取る。エドの指先がロイの指先を握るような格好になった。
う…手が俺よりデカイ。やっぱり俺ってガキなんだと思い知らされる瞬間だ。
水滴で落っことしそうになりながら受け取ったグラスを一気に飲み干す。…不味い…。
ごほっごほっとセキが出て一気に顔が真っ赤になる。
「そんな飲み方をするからだ。馬鹿だな」
「アルどうしているかな。雷が嫌いでさ、よく俺のベッドに潜り込んできたっけ」
「あの図体で?ふ… 恋しいか、弟が」
ロイの揶揄にも怒り出す気力が出てこなかった。
「弟の身体がまだあった頃、ふたりで無人島で修行してたんだけど雨の日や肌寒い日は抱き合って眠ることが出来たっけ。…暖かかったなぁ…。お互いの心臓の音が聞こえると安心して眠れた」
「寂しいなら旅先で誰かと肌を合わせて眠ったらいい」
「俺だけ?温かい飯を食って、ロス少尉か…誰か甘えられる柔らかい人のベッドに潜り込むとか?」
「鋼のはロス少尉が好みか?優しい女性だ、望めば君を愛してくれるだろう」
「うん。だけど…あり得ない。誰かを愛しすぎると、失った時、もう一度呼び戻すかもしれないから。母さんみたいに」
「だから、もう誰も愛さないと」
「うん。決めたんだ…」
エドは眠りに引きずりこまれそうな感触に襲われる。眠っている人に話しかけたらいけないんだよ、大佐。
小さい頃、お母さんに教えて貰っただろ…?
「それは…鋼のは愛し方を知らないからだろう。そんなことはな、誰にも出来ない」
イスからロイが立ち上がる音がする。がくんと前にくっぷしたエドは抱き上げられてベッドに寝かせられる心地良さを半ば眠りながら味わっていた。ロイは上着を脱ぎ毛布を背中にかけてエドに覆い被さる。ベッドがギシッと音を立てて軋んだ。
「愛された記憶のない人間は誰も愛せない。扉を閉める前に…俺を中に…入れてくれ」
エドの黒いノースリーブのTシャツはロイの大きな手でたくし上げられて白い素肌が浮かび上がった。喉元に唇を寄せてロイがエドの肌の上をゆっくりと這っていく。触れるか触れないかの軽いタッチで。エドは目を閉じたまま夢の中にいる。重みで誰かが身体を重ねているのを感じる。それは女性を抱いたことのないエドには愛撫のなんたるかの手ほどきのように感じられるほどの優しさを持っていた。身体が動かないのはアルコールのせいなのか、大佐の行為を拒む気持ちが無いせいなのか分からない。嫌じゃない。嫌じゃない…。
息苦しさと、温かさと、不思議な胸のざわめきとでエドは、はっと目を開ける。…大佐。誰かとこんな風に瞳を合わせたことがない。探り合うような視線に眩暈がする。
「眠いなら…眠ったままでいい。私自身を満たすような痛めつけるようなことはしない」
「ショック療法かよ。こんなこと…」
エドは肩を押し戻そうとするがロイは肌に舌を這わせて胸の突起を甘く噛む。う…あ…!
「こうだ…そして…こうする…」
ロイは目を開けたままのエドの唇を唇で塞ぐ。おやすみのキスにしては濃厚すぎる…。
そして何度もスリップさせてロイはエドに接吻する。気が付くと指先でズボンのベルトを緩めて手を差し込んできて自分以外の他人が触れたことのないところをやんわりと握ってくる。いつの間にかズボンは剥ぎ取られ、焔を起こすロイの繊細な指先は太腿を撫でて膝の機械鎧の境目を往復していた。

エドが夢精を起こすようになったのはつい先日のことだ。一緒に旅をしている大佐の視線のせいだったかもしれないが、原因なのかは分からない。ようやくロイの唇が離れて右腕の機械鎧と肩関節の境目を舌が撫でていく。痛みは感じるはずがないのに舌先の優しい感触は指先まで届くような気がした。「犬みたいだ…大佐」「軍の狗か。その通りだ」「違う…そうじゃなくて」なんて言ったらいいんだろう。アルとの旅の間に野良犬が愛し合う姿を見たことがある。ああ…あれが…セックスか。あんな泣きそうな声を出して気持ちいいんだ?…それを伝えるのに、犬みたいに無口でいいってこと。吐息を漏らして相手にしがみついて快感に高揚する歪んだ顔を背けても見せろとばかりに追ってくる大佐の唇の執拗な動きとか。しだいに大佐の掌の中で幼い俺自身が蝶が羽を開くように勃ってくる。
「…それから、女の中はこんな…感じだ…」
そう耳元で囁いてロイはエド自身を口に含む。「…嘘だろ…」思わずエドは利き手の右手で大佐の前髪を握っていた。何だろう…音がする。それからさっきキスをした大佐の口の中に俺のが、すっぽりと吸い込まれている。薄目をあけると熱く湿ったそこは真空になっているのか大佐の頭が上下に揺れてペニスの快感だけが増幅されていく。何を俺に教えたいんだよ、大佐。こんなこと、普通の人はしないだろう?腰が何度も跳ね上がって逃れようと身をよじるけれど大佐は離してくれない。閉じかけた心を身体で無理矢理開くのが愛なのかよ?だって大佐だって女の人をこんな風に抱くのかもしれないけれど心は閉じたままじゃないか…。温もりが欲しいだけなんだよ、俺は。アルの、母さんの…父さんの…!恋人として俺が欲しくて大佐がこうしているんじゃないのは分かってる。
なのに、あ…来る。「大佐…もう…離れてよっ!!」…腰がしなって最後には自分で…揺するように振っていた…。脈動する俺自身。大佐の口の中に放出される快楽の名残。絞るようにごくりと喉を鳴らす口のしごくような動きにビクンビクンと脊髄が痛む。あまりの快感の強さに腰が動かせずに仰向けになったまましばらく放心した。毛布を身体の上に掛けられてふっと重たい空気が去って軽くなったとたん、涙が出た。横を向いて丸くなったエドを背中から服を着たままのロイが抱えて眠る。目の上にそっとロイの右手が置かれた。
俺は声を殺して…泣いた。

やっぱり犬みたいだよ…大佐。人の体温って…暖かい…な…。


7. 〜別れの曲〜

朝日が昇ってカーテンの隙間から光が差し始めたのを合図にロイは寝息をたてるエドを腕の中から離してベッドから降りる。エドのほどいた髪がシーツの上に無造作に広がっていた。髪を切らないのは弟の身体を取り戻す願掛けなんだろうか。訊いたことはないけれど。
部屋から出て下のキッチンへ入ると女主人はすでに朝食の準備をしていた。
「お早いですね」
「軍人ですから」
「コーヒーをどうぞ。淹れたてです」
「奥さん用でしょう?いいんですか」
「いつも2杯淹れるんです。無くなった主人用に」
「ありがたく、頂きます」
女主人は微笑んでコーヒーカップをロイに渡した。
「軍人…お嫌いでしょうね。よく、宿を断られたりします。昨日はひどい雨でした」
「まだ寝ているんですか?あの子、あんな夜中に尋ねてきてなにか事情がおありなんでしょうけれど、大人がそんな危険なことをさせないようにしないと」
女主人はやんわりとロイを諭しているようだった。
「彼も軍人です。国家錬金術師ですから」
「…そうなんですか。戦争に行くんでしょうか、いつか。でも、理由のないことをなさっているわけではないでしょう?あなたも…あの子も。軍人だった主人はいつも戦う理由が見つけられず苦しんでいました。長生きは出来ない怪我を負いましたけれど」
即答できない。
理由…。人が死んだり殺されたりすることに、意味が無いと…いけませんよね?
そんなこと言葉に出来ないけれど。
「朝食をふたり分用意しました。あの子にも食べさせてあげてください」
「ありがとうございます。感謝します」
コーヒーカップをテーブルの上に置いてロイはキッチンを出た。
廊下から中庭に出る。

焔の記憶。
あのイシュバールの少年は恋をする前に死んだ。女を抱くこともなく、人を愛することを知らず。だからエドの身体をこじ開けたのかもしれないな…あの少年の代わりに。
人は自分が愛された分しか人を愛せないとロイは思う。最初から捨てていたら誰からも愛されることはない。愛が無くても女を抱くような自分のような大人になるなと教えたかったのかもしれない。
私はもう誰かを愛することはないと思っていた。資格が無いとも。そんな時にエドに出会って自分が出来なかった人体錬成を試みたことを知り慄然となった。子供だから無垢な心でそういうことが出来たのだというヤツも居た。だけど錬成理論に到達した知力と勇気と畏れを顧みない生き様を悟って、エドに道を造ってやりたいと思ったのは確かだ。自分が出来なかったことをして見せた者への羨望がいつしか尊敬に変わることだってあるのだとロイは思う。年なんて関係ない。もう一度俺に愛させてくれる存在がこの世にいるのなら男だろうが女だろうが影となり愛し続ける。きっと自分の気持ちはそれだけなのだ。

「早いね」
見上げると窓からエドが顔を出していた。金髪に透ける太陽が眩しかった。
「頭、痛くないか?」
「ちょっと痛い」
「それが二日酔いだ」
「当分、酒はいいや」
私の腕の中で眠りにつくまで泣いていたのに明るい顔をしていた。満たされた顔ってどうしていつもあんなに惚けたような愛神(アムール)を思わせるんだろう。…ずるいな…。与えておきながら奪いたくなる。奪っておきながら、捨てて、誰かに渡したくなる。それが愛するってことなのかもしれないけれど。

宿の客はふたりだけだったので中庭が見える広いテーブルの角に座る。
…ガツガツガツ…
「鋼の。そんなにがっつくな」
「腹が減ったんだよ。あ、ソーセージいらないの?くれよ」
と、エドはフォークを突き出すがひょいと皿が右へ寄せられてテーブルに突き刺さる。
「やらん。好きなものは最後まで取って置いてるだけだ」
「俺は先に食べちゃうな。アルはいつも好きなものを残しておいてよく俺に取られて泣いていたっけ」
「変わらんな、今と」
口をもぐもぐさせながらエドは、すいませーんパンおかわり!とキッチンへ叫んでいる。
運ばれた柔らかいパンにバターを塗りながら「牛乳やるからそっちのベーコンと等価交換」
「持って行け」呆れたようにロイは皿を渡す。
「やたっ♪」

ふー。エドの膨れた腹がベッドの上で上下している。
「置いていくぞ。牛」
ロイは軍服を身につけ終わって窓辺からのどかな風景を眺めていた。
「牛?昨日さ…犬みたいだなって思った」
「私が?」
「…俺が」
窓枠に腰掛けながらロイは振り返る。
「背中が温かくて、点けられた焔の疼きが消えなくて、でも解放された気分だった」
夢見るようにエドはつぶやいた。気持ちが伝わったのかとロイの心が高鳴りだす。
「…大変聞きにくいが…良かったのか…?」
「うん」
「ぶっ!そいつは良かった。私もあんなことを誰かにしたのは初めてだ」
「そっか」
エドは頭を両手に乗せて天井を見ていた。
「正義とか国家を愛するとか、たいそうな精神論だけで生きて行けたら楽なんだがな」
自嘲気味に笑ったロイをエドはゆっくりと眺める。
「分かってる。あんたがやりたいこととか進む道とか。俺と旅して、良かった?」
「最初で最後の新婚旅行だろうな」
「…は?馬っ鹿じゃないの?」
目で相思相愛だよな?とエドを見るがどうやら分かっちゃいないらしい。苦笑する。
「休暇は終わりだ。さて、通常モードに戻ろうか」
まだこうしていたいとエドは言葉に出来ない。エドが横たわるベッドがギシっと軋んで身体の上にロイの影を映し出した。片膝をついたロイはエドにゆっくりと顔を近づける。
「さようなら…私のアムール…」
あっ…と開いた唇をロイは慈しむように…もう一度だけ…塞いだ。




                                     illustrated by なおこさん



8. 〜G線上のアリア〜

エドはセントラルの駅で大佐と別れた。

列車の中ではずっと眠っていた。大佐はどうしてた?と訊くと、寝顔を見ていたと答えた。
アルが「僕もだよ。兄さん、すぐお腹を出して眠るから〜もぉ〜」と笑っていた。
また賢者の石を探しに行くよと言うと、行き先だけは報告していけと大佐は答える。
駅前に軍用車両が停車していてドアが開いてホークアイ中尉が運転席から降り立った。
「じゃあ…いつでも出頭してこい、鋼の。困った事態が起きたら抱え込まずに連絡しろ」
「うん」
ホークアイ中尉はエドにも敬礼しながら大佐を連れて行く。誰だって寂しいんだ、きっと。
大佐は車に乗って去っていく。地位が上がり将軍と呼ばれる頃には出歩ける機会はこれからもっと減るだろう。車の中から振り向くかと思って立っていたけれど、とうとう振り向くことはなかった。…さて、帰るか、アル。

「もう、帰ってこないかと思いました」
リザが運転する車の後部座席でロイは腕を組んで目を閉じる。
「ただの休暇だ。私は軍隊の外にどこへも行く所はない」
「私…大佐が自由になりたいのかと…」
リザにとって、恋と自由は同義語だった。
「めんどうを見なきゃならん家族が大勢いるからな。私は君と生涯離れたくないと思っている。だがそれは戦場で、という意味だ。私は家庭を持つことも無いと思う。君は私だけを見ていろ」
はっ…と息を呑むように車内の空気が一瞬揺れた。
「…お帰りなさいませ、大佐」そう言うリザの声が震えていた。
「書類が溜まっているだろう?サインし終わるまで付き合えよ」
「はい」
車はセントラル中心部へ向かっていった。

エドとアルは並んで宿に向かって歩く。
「今日ね、下の酒場にハボック少尉とブレダ少尉が遊びに来ることになってるんだよ」
とアルが言う。
「あ〜?また、カードゲームか」
「うん。大貧民!面白いんだよ〜クセになりそう」
「好きだね〜お前も」
「兄さんもやろうよ♪」
「そうだな〜〜」
大佐のチームの人たちが俺たちを気遣ってくれているのは俺が軍属であって監視すべき立場にいるからでもある。遊びながらチクチクと背信行為がないか本心を探って来たりすることもあるけれど。両親がいない今、ひとつしか上じゃなくても俺にはアルを養育していく義務があるんだもんな…。
あ…。義務だなんて…。まるで重たいものでも背負ってるみたいじゃないか?そんなこと思っちゃいけない。だけど母さんがいたらアルを好きなだけ甘えさせてやれて、俺は俺だけの時間があって、勉強して好きなコトしていたのに。…考えるな!そんなこと。

通り沿いの家からかすかにレコードの音が流れてくる。女性の歌声…アリアだった。
とたんにリゼンブールの夜が甦ってくる。真っ直ぐな黒髪が肌を掠めていく心地良さに。

…逢いたいな。ロス少尉に。

「アル〜ちょっと出掛けてくる。今晩、帰らないかもしれない」
「えっ、ちょっと兄さん!まさか、恋人でも出来たの〜!?」
ドカドカドカと足音をたててアルが駆けてくるがエドはひょいとかわした。
「ナイショ。あとで教える、じゃあな〜〜!!」
エドは軍司令部に向かって駆けた。

陽が傾いているのが長い影で分かる。エドは司令部の守衛室に駆け込んだ。
「守衛のおじさん!ロス少尉は?早番?遅番?」
「マリアさんなら早番だからさっきここを通って帰ったよ。運河の方へ行ってみな」
「サンキュー!」

少年は疲れを知らずに走り続ける。

運河に沿った通りでエドはロス少尉を掴まえた。
「ロス少尉!」
「エドワードさん」
マリアは駆けてきてハァハァ言っているエドを訝しげに眺めた。
「どうしたの?まだしばらくリゼンブールに居るのかと思っていましたよ」
「少しセントラルに居たい事情ができたから、大佐と一緒に戻ってきた」
「事情って、なんですか」
「俺にあなたを愛させてくれませんか?そうしたら早く大人になれる気がする」
マリアは脚を止めてエドの顔を見つめる。
「どうして…私なの?」
「あなたなら、拒まない気がした」
「…唐突なのね」
毅然とした態度で危険な行動を取ったあと頬を叩かれて叱られたこともある。
だけどいつも俺のことを子供は子供らしくしていいと保護してくれた明るい女性だった。
「俺のこと、嫌いですか?」
「軍の内部で恋愛をしようとは思わなかったの。誰だって、そうでしょうけれど」
エドの頭の中になんとなくホークアイ中尉の顔が浮かんだ。
「あなたにはずっと子供のままでいて欲しい気がするの。どうしてかしらね」

拒絶だろうか、受容だろうか…?
いい匂いのする短く切りそろえられたマリアの黒髪が大佐を思い出させる。俺は彼女に大佐を重ねているんだろうか…分からない。冷たい身体を温めてほしいと思うことは間違っているのかもしれない。だけどこれから先、俺が誰も愛さずからっぽなままで、どうして身体を取り戻すまで弟のアルと一緒に戦い続けていられるんだろう。
分かりかけてきたんだ。賢者の石の錬成が生きた人間を使う禁忌である以上、アルの身体を取り戻すには自分の肉体が必要な時が来るってことを。俺は、俺自身を満たしたい。大佐のように、身体から溢れるほどの大きな愛で。そして、いつか弟に身体ごとこの生命を渡すまで、どうか俺を包んでください…
マリア・ロス少尉…!

「初めての恋じゃありません、だけど…あなたをもっと知りたい」
エドは正直に本心を打ち明けた。その熱くてまっすぐな瞳をマリアは受け止める。誰かにあなたが欲しいと想われることが幸せでない人がこの世にいるのだろうか?
「恋、したことあるのね?」
「はい」
「じゃあ…いいわ。エドワード・エルリック少佐、私のアパートはそこの角を曲がった先です。寄って行かれますか?」
マリアははにかみながらうつむいた。こんな時でも俺は年上の彼女に負担をかけている。
エドは肉体の残る左手でマリアの腰を引き寄せた。「ちょっと、かがんでください」
膝を曲げたマリアにエドは頬に手を添えてキスをする。本気だよって分かってもらえるように。大佐が教えてくれたように…丁寧に…優しく。離れがたく唇を離して目を合わせた時、身体の疼きを感じると同時にきっと始まる今夜の音のないダンスのことがエドの頭にぼんやりと浮かんでいた。

「珈琲はあるの。あと、パンと新鮮なお肉と朝食用に果物を少し買っていきましょう」
「泊まっていいの?あのさ…牛乳はいらないから」
「ダメよ、飲まないと」
マリアが笑う。
「嫌いなんだよ」
「背が伸びないわ」
「うっ…」
そんなエドを見てマリアはエドの耳元に唇を寄せてアリアを歌うように綺麗な声で囁く。
…私ね、初めて見た時から、あなたのことが、好きでした…。
とたんにエドの顔がかぁぁぁ…と真っ赤に染まる。

角を曲がったエドとマリアにセントラルの市場は、賑やかに夕暮れの訪れを告げていた。

おわり

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〜美しきクラッシックの小品に寄せて〜